2022年6月23日(木)慰霊の日 記念卓話
≪諸見里安弘会員卓話 / 演題:私の戦争体験記≫
こんにちは!今日は、慰霊の日で出席者がどうかなぁ?と、
思いましたけれども・・・。
6月23日!ニサンガロク!慰霊の日!小学生でもわかる、
それをインプットして頭に入れて頂ければ慰霊の日を
忘れる事は無いと思います。
何か、私のスピーチ!私のロータリーライフの最後のチャンスか?
と、思い快く受けました。
沖縄戦は、新聞・雑誌なのでご承知の通りです。
今日は、私が経験した事。私の少年兵時代の話だけをして終わりたいともいます。
今日は、皆さん、出席して頂いてありがとうございます。
私は、昭和4(1929)年生まれで、昭和17(1942)に県立第二中学校(二中)。今の那覇高校に入学当初は事業も正常に行われたから良い時代だった。
ただ、始めてみる軍事教練の授業光景には驚いた。
3年間、学生生活しながらすべてが軍事一色だった。
中学校3年頃に兵隊にあこがれている我々は、通信隊の募集があったので通信隊のテストを受けて、200名余りから半分ぐらいは合格
して少年兵として陸軍二等兵。兵隊の位では、一番下です。赤字の上に光る一つ星を襟章に。これを貰うのに軍国少年だから非常に満足していました。
那覇の空襲で全部焼けて、我々、二中は授業が出来なくて、一中!今の首里高校と交互に授業をした。
それも、半年ぐらい。そうしたら昭和 19(1944)年の暮れにはアメリカの爆撃が酷くなって、沖縄もB29にやられて大変な目になって行く時期でした。
我々も昭和19年の暮れから、招集を受けまして首里赤田にあるキリスト教会で入会式があり、新しい軍服が支給され3年生には旧式だが三八式銃も支給された。
その時、私は150cmにも満たない。軍服もダブダブで銃も重かった。「自分の身を
天皇に捧げる。帝国軍人として最後まで任務を全うして国を守るんだ!」と、通信隊(無線班)の試験を受けました。
昭和20(1945)年3月頃から慶良間から那覇港、読谷、嘉手納までアメリカ軍が、軍艦が来た。4月からは、陸上での通信が出来ないので壕の中に入って発電機係り。我々、少年兵は二人一組になって、手動発電機(テンパ)のハンドル
を回す事が主な仕事だった。必要な時には起きて発電しないと上の人達は通信が出来ない。電気発電機なんて贅沢なのは、軍隊にはありませんでした。他の少年兵は、飯上げ当番。食事当番を引き受けていました。それから、西から東からと艦砲射撃が凄い。雨あられのように!そこから砲弾が飛んでくるか分からないけれども、ひどい時には、至近弾と中距離弾と遠距離弾の飛び方の音で我々は、「あっ、近い!」「あっ、遠い!」と、「大丈夫だ!」と判断が出来るように、そのくらい、敵の砲弾にもトレーニング出来るようになっていました。我々と一緒に入隊した、有線部隊と無線部隊と暗号と分けられて学生は徴兵されているけども、有線部隊は爆弾を担いでアメリカの戦車に体当たりする。そうゆう同級生の犠牲者が沢山たくさんいました。四月ごろになると、アメリカ軍が那覇、首里までやって来て、首里城に司令部がありましたけど、そこも危なくなって南部に撤退。
撤退は、良い言葉ではあるけれども、実際は、手も足も出なくて逃げて行く。日本軍は、「撤退!撤退!」と。司令部も撤退して、我々、通信隊は赤田の丘にいましけれども。夕方になると、少し艦砲射撃が少なくなって、夜になると空襲が無くなる。
なので、我々日本軍は、壕の中から出て来て、いろんな食料を探したり、ご飯を炊いたりする。
外に出るチャンスは、夕食の時だけ。4月26日!忘れもしない。一期先輩が、下のナゲーラー小川で飯盒を洗って、壕の入口に来た時に突然「ドカーン!」と、物凄い爆音と同時に、土砂が降ってきて目の前は真っ暗。飯盒が、大事!飯盒でもなくすとビンタが飛んできました。だから、飯盒を集めようと歩きだしたら、左足がどうも焼けた鉄の棒をくっつけたように熱くて、痛くて、ヌルヌルして血だら
け。見たら、肉がめくれて砕けた骨も露出している。少年だから血を見ただけでびっくりして、痛みがあるので気絶して、気が付いたら医務室で、左足は太ももを締められて天井から吊るされていた。それで、オレは生きているんだ!と。
だけど、それからが大変。衛生兵はいるけども、医者はいない。衛生兵いても、あの頃は、ヨードチンキとオキシドールとガーゼくらしかない。
そのうち、足は悪くなって、腐って行って腫れてバイ菌も入るし、熱も出るし、飯も食えない。それから、20日くらいしたら何とか動けるようになっていました。
傷も良くなった頃に、中隊長から「うちの部隊も首里の壕を放棄して南部に山城に撤退する。」と。「もし、お前たちも、歩けるんだったらついて来い。歩けなければ、自決しなさい。」と。
手榴弾と、靴下に一杯の米と二袋の乾パンを渡されて取り残された。まだ、子供ですからね。中学三年生だから、もう、泣いても、笑っても誰もいない。
どうしようと思っている時に、天の助けか!中隊長が、上等兵と少年兵、二・三名のために付き添いを「面倒を見て。」と、残してくれた。これが、命の助け。僕たちの部隊の元気な人は、一昼夜かけて糸満の米須まで行った。僕たちは、ぬかるんだ下り坂は尻をついて滑る。杖つきながらゆっくり上がる。少年は、夜になると、疲れて眠い。行くところは上り坂だから動けない。大変な目にあってどうしようもないので、上等兵に「私を残して、行ってください。」と、言ったら「ここで死んで、どうする。」と、ビンタ。途中、陸軍病院に一泊した。そこで、女学生からにぎり飯をもらって美味しかった。今も、覚えている。
それから、島尻に!戦前に島尻なんて行った事がないので道も分からない。
昼間は、行動がとれない。夜しか歩けない。一週間かけて波平と言う所に着いた。壕はないから、岩の間に5・6名づつ別れて、隠れる。「隠れる」と、言う言葉は、軍隊ではいけないので、避難する。避難したら、アメリカ軍がきて集中的に攻撃して生き埋め。幸い僕たちは、遅く来たので、石を積んで枯れ木を置いてカモフラージュして助かった。山城に向かって行ったら、アメリカは自由自在に砲弾をあっちこっちから撃ってくる。住民は、右左。兵隊も右往左往する。どこに行って良いか分からない。夜遅く、我が部隊は解散することになって、自由に何処に向かっていいから、敵にも突っ込んでもいいし、米兵を一人でも多く殺して、自分の兵隊の最後を遂げるように。と、解散式。キビ畑で落ち葉を被って避難しているつもりが、みんな疲れているから寝てしまって、ちょっとして起きたら隣
の人が「米兵が、いるよ!」我々が寝ているキビ畑を囲って鉄砲を構えている。
日本兵が撃とうとしたら、日本の鉄砲は、一発づつ。アメリカは、自動小銃。隣にいた学生が手を挙げて、僕たちもとっさ的に手を挙げて、アメリカは撃つのをやめた。そして、一列に並ばされて、英語でベラベラ話しかけるが少しもわからな
い。わからないので返事をしないので黙っていたら、僕たりの頭に銃を充てられて、怖いです。僕は、とっさに「アイ キャン ナット スピーク イングリッシュ」と、言った。中学1年は、英語を習った。2年3年は希望者だけ。
「I cannot speak English」そしたら、米兵さんは、ニコニコ笑って、また、どうのこうと言う。僕は、わからないから今度は、胸のところに銃を突き付けて、一緒にいた山城君が「school boy!school boy!」と、言った。それで、米兵は理
解した。いろいろ話すけれども通じない。第六感で、日本の鉄砲の数と死んだ人の数が合わないから、それを聞いている。と言うのは、日本の指揮者は、日本刀だから、将校は鉄砲を持っていない。だから、合わない。僕が「TeenFour。」と、足で「14」と、書いたら理解してくれた。
それから、伊良波の収容所に連れて行かれた。行くトラックの上から見たのは、道端に積み上げられた死体の山。目から口からウジが涌いて、牛ほどに膨れ上がった死体もあった。その間を自分達は、捕虜。恥ずかしい、頭を下げながら行った。キャンプまで行ったら、びっくりした。捕虜の多い事。それから、自分達だけが捕虜じゃないんだ!半分は、責任逃れ。と、言うか、亡くなった方には悪いんだけど、助かった。それから、嘉手納飛行場!金武の屋嘉の収容所に連れていかれていた。
それから、40台~50台のGMCのトラックに詰め込まれた。石川を通った時に、MPの隙を狙って自分の名前を書いた(二中 諸見里安弘)帽子を投げた。捕虜が多いから途中で捨てられるだろう?と、思っていたら、沖に停泊している船まで上陸用先般で運ばれた。乗船後直ぐに、シャワーを浴びる、さらにDDTの粉末を浴びせられた。そして、だぶだぶのグリーンのランニングシャツとパン
ツが渡された。その時にやっと「殺されるのではない。」と安心した。それから、沖縄を出ました。僕たちは、シャツもあったけど、船によっては真っ裸でハワイまで、連れて行かれた。ハワイの生活、捕虜生活は、今度、機会があったらお話しをしたいと思います。取り留めのない話しで、あっちこっちに話しが飛んで感情だけが先になって、聞きづらかったかもしれないけど、今日の卓話を終わらせて
頂きます。ありがとうございました。